拉薩(ラサ)に行ってきました。2003年に次いで2度目のチベットです。
今回の旅行はチベットが主たる目的ではありませんでした。ことし7月に開通した、厳密には青海省の格尓木(ゴルム)からチベット自治区のラサまで延長された、青蔵鉄路(青海-西藏鉄道)の列車に乗ること、そして青海湖を見に行くことが主たる目的でした。 共産党が支配する現在の中国に批判的な方の多くは、"大量虐殺”を伴った"中国”のチベット支配と弾圧を、”犠牲者”の数では日中戦争以上ではないかとも言われる文化大革命や東トルキスタン問題などとともに”嫌いな”理由の一つにされています。 1947年アジア諸国会議にチベットは独立国家として代表を派遣しました。しかし、1950年、中華人民共和国の”人民解放軍"が東チベットに侵入、その後、数万の軍隊が駐留し、チベット人に圧力をかけ続けました。1959年にはチベット人による政府の解散を強要し、1965年に中華人民共和国のチベット自治区を成立させました。この前後の混乱期には、チベット人による民族蜂起が何度と無く起き、数多くのチベット人が亡くなり、或いは囚われの身となり、数万人のチベット人がインドなどに亡命しました。いまなお、主としてチベット仏教の宗教関係者が、中国当局に拘束され、或いは投獄されていると言われています。 中国当局によるチベット人への民族差別、ダライ・ラマ14世を正統とするチベット仏教に対する弾圧が、いま尚続いており、総じて”チベット問題”として国際社会から批難を受けたりしています。 ラサの街は3年前と大きく変化していました。 3年前、1980年代のランクルがほとんどだったツーリスト向けのレンタカーは、北京の街を走っているのと同様の最新型の外国ブランド4WDに。 また、これは多くの地方都市でも言えることですが、空港のターミナルビルも新しくなっていました。3年前はタラップで飛行機を降りて徒歩で空港の小さな建物に向かったのですが、いまではブーディング・ブリッジが4つもある日本の地方空港顔負けの近代的なターミナルビルになりました。 空港からラサ市の中心に繋がる道路も見違えるように整備されました。新しく橋が架けられトンネルも造られたので、距離も時間もグンと短縮されました。 ポタラ宮広場も整備されました。国旗掲揚塔がいっそう立派になり、「西藏(チベット)和平解放碑」なるものができていました。チベット人の風習が温存されている(はずの)寺院や大昭寺を囲む八廓街は3年前と大きな変化がありませんでしたが、大昭寺の屋根の上からラサの古い街並みを見渡した時、”都市整備”のため壊されている建物のうえに五星旗がふてぶてしく翻っていたのが印象的でした。 青蔵鉄路の開通に伴い、ホテルやレストランの料金は軒並み値上がりしたようです。ツーリスト向けのホテルの宿泊料は、3年前の2倍くらいになってしまいました。"拝観料”は色垃寺が55RMB、大昭寺に至っては75RMBでした(ちなみにチベット人は無料とのこと)。3年前は20RMBくらいだったと記憶しています。 どうせ漢民族だけが儲けているんだろう、と思う方もいらっしゃると思います。 確かにラサには漢民族がたくさん居ます。四川省や陝西省(西安あたり)から移住してきたり、出稼ぎに来ている人たちによく出会います。ラサなど都市部では漢民族の”大量移民”によりチベット人はもはや”少数民族”だ、と言う指摘もあるようですが、ラサの人口の約半分はチベット人(チベット族)ということになっていますし、ツーリストとして行動する限り、この街で出会う人々の大半はチベット人のように見受けられました。 私が宿泊したホテルの従業員はほとんど全員チベット人でした。外国人向けのレストランやコーヒーショップでもチベット人の若い女の子が闊達な英語で対応してくれます。おみやげ屋さんの店員さんも、ほとんどがチベット人です。”観光化”されたとは言え、寺院で見かける”参拝客”もチベット人が多数派でした。自動車タクシーの運転手は大半が漢民族により占められているとのことでしたが、自転車タクシーの運ちゃんはほとんどがチベット人です。ちなみに、ラサ市内では自動車タクシーも自転車タクシーもほぼ同一料金ですから、自転車タクシーのほうが、利鞘が大きいのではないでしょうか。 青蔵鉄路の北京発着列車の食堂車で働くウエイトレスは、チベット人が中心だそうです。拉薩(ラサ)から格尓木(ゴルム)に至る車窓からの眺めは見事なものでした。ラサから数百キロ離れても線路沿いにはところどころにチベット人の集落が見受けられます。そうした田舎の集落であっても、電気が通っていて、携帯電話の電波が届いているようです。 チベット高原に生息する牛、”ヤク”を放牧するチベット人の親子が、微笑みながら列車に手を振ってくれました。 いっぽうで、ラサの街では北京よりも多いくらいの”公安関係者”をお見かけします。画一したユニフォームで余計そう見えるのかもしれませんが、チベット人の”公安関係者”はほとんど見かけることがありませんでした。きっと、相変わらず”お役人”の大半は漢民族なのでしょう。 バックパッカーが多く訪れるホテルで働くおばさん、欧米人ツーリストに人気のカフェレストランで働く女の子、自転車タクシーの運ちゃん、と3人のチベット人に、「いま幸せか」尋ねてみました。 3人の答えはそれぞれ一言で済むようなものではありませんでしたが、乱暴に整理してしまうと、3人とも「収入が増えたので、むかしより幸せ。」と言うことでした。 チベットはますます”観光化”され、外国人だけではなく中国国内からもほぼ自由にツーリストが訪れることができるようになりました。中国都市部が裕福になるにつれ、チベットに”落としていくお金”も多くなっていくでしょう。いまや”観光資源”となったチベット寺院には、いまなお修行を続ける僧侶たちがたくさんいて、たくさんのチベット人が日に日に参拝に訪れています。そして、その光景をいっそう多くの外国人や中国人が目の当たりにすることができるのです。 また、広大なチベット自治区のさまざまなところから拉薩(ラサ)や日客則(シガツェ)などの”観光都市”に、職と富を求めてチベット人がやってくるそうです。 インドのダラムサラに居られるダライ・ラマ14世のことを、いま尚自分たちの政治的リーダーだと考えているチベット人は如何ほど居るのでしょうか。もちろん、パンチェン・ラマ11世に対してはなお更では無いでしょうか。 “伝統文化”が政治的権力によって失われたというのは事実でしょう。或いは、“伝統文化”ですら時代とともに変化していくものだとすれば、それを受け入れる勇気も必要でしょうし、そうした流れに身を委ねることを批難する権利は誰にも無いのではないでしょうか。 「私は一介の僧です。つつましい比丘(ブッダダーサ/ Buddhadasa Bhikkhu)です。わたしの潜在意識の中では一介の僧という感覚がもっとも強いです。夢の中ですら私は自らをチベットの国王としてではなく一介の僧としてみています。」ダライ・ラマ14世は1990年『Dalai Lama Speaks』の中でこう述べられています。 “こころの自由”だけは脅かされること無く、少しずつかもしれませんが人々が豊かになっていくのであれば、そしてそのことを世界中の人たちが目の当たりに確認できるような状態が保たれるのであれば、チベット人もまた、ふしあわせでは無くなるのでは無いでしょうか….。
by pandanokuni
| 2006-08-26 23:44
| 政治ネタ
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