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さよなら、もみじ2号店。
東三環路を国貿中心から京広中心へと北上すると、その右側では中国中央電視台(CCTV)の新社屋工事がモタモタと行われています。北京で現在建設中のビルは、オリンピックが予定されている2008年までに竣工させなければならない、と言う"決まり"があるので、こんな様子でホントに間に合うのか心配になります。でも、1999年にその直前まで工事の遅れて姿を現せなかった王府井の東方広場のビル群が10月1日の建国50周年軍事パレードの直前になって、その堂々たる姿を突然現したという"実績"を考えると、きっとオリンピックの前の日あたりまでには、工事現場の囲いがはずされて、ハリボテのCCTV新社屋が姿を現すことはほぼ確実なのでしょう。こんなこと心配しても仕方が無いし。

CCTV新社屋の建設用地には、北京のごくフツーの集合住宅と小さな自動車工場があり、東三環路に面した位置には奥行3~4メートルほどの小さな商店が立ち並んでいました。その中には、日本人向けのスナック「もみじ2号店」もありました。
「もみじ」は「美波里」とともに、北京の日本人向けスナックの"草分け"的存在です。1997年当時、私が知り得たスナックはこの2つだけでした。その頃の「もみじ」はケンピンスキーホテルの東側の路地で遠慮がちに営業していました。"ママ"と呼ばれた4人姉妹の末っ子を中心に、3人姉妹がお店を切り盛りしていました。
"ママ"はカナダ国籍を持っていて、白人の彼氏とたまたま、既に営業を始めていた「美波里」に立ち寄って、ビジネスとしてのポテンシャルに強く感じてしまい、速攻で「もみじ」を開業した、と伝え聞いています。ですから、97年当時の「もみじ」はカウンター中心の店作りで、京信大廈に引っ越す前の「美波里」と非常に良く似た雰囲気でした。

商売は順調に伸び、老舗「美波里」を意識して東三環路に面した場所に「2号店」をオープンしました。オープンしたばかりの「2号店」もやはりカウンター中心の店作りで、「1号店」と呼ばれるようになったケンピンスキー横の「もみじ」の"ママ"のスグ上の姉が「2号店」の"ママ"としてお店を仕切ることになりました。「2号店」の"ママ"は妹の「1号店」の"ママ"よりもビジネスには長けていませんでしたが、その分穏やかだったので、次第に「1号店」より従業員の女の子もお客さんも引き付けるようになっていったのです。
2000年から2002年にかけては「2号店」の"黄金期"でした。いまの北京のスナックでは考えられないくらい性格が良く美しい女の子が揃っていました。
この店で稼いだ資金を元手に日本に留学し、いまは日本の"大企業"で活躍している女の子、日本人駐在員と日本で"幸せな"家庭を持っている女の子、多くのオヤジに貢がれつつも"貞節"を重んじた(と私は信じている)"伝説の"H嬢、現在スナックの"ママ"として相変わらず"この世界"から抜け出せない女の子など、この頃の「2号店」は数々の人材を輩出しています。

しかし「1号店」がヒルトンホテル裏の現在の場所に移転してから、事態は一変します。まず「1号店」と「2号店」との間で従業員のトレードが行われました。これは、"チームワーク"による接客が魅力だった「2号店」の雰囲気を悪化させてしまいました。"やり手"末っ子"ママ"の経営手腕とフロアの広さにより業績を伸ばしていった「1号店」に対して、従業員の入れ替えにより"チームプレイ"がで機能しなくなった「2号店」は凋落に向かっていきました。そして"ダメ押し"となったのが"ママ"のトレードでした。「2号店」の"テコ入れ"と称して、"やり手"の末っ子"ママ"が「2号店」を取り仕切るようになって、私のお気に入りだった「2号店」はまったく別なお店になってしまったのです....

CCTV新社屋の建設用地一帯が次々と"斥"(立ち退き - 取り壊し)されていく中で、「2号店」だけはしぶとく営業を続けていた様子ですが、2ヶ月ほど前に閉店したそうです。現在「1号店」の"ママ"は元々「2号店」の"ママ"だった姉のほうで、「スナック業界も競争が激化して大変なので『2号店』はもう出しません」と言っていました。
いまでは日本人向けのスナックは北京市内に100店近くあるのでしょうが、"黄金期"の「もみじ2号店」を知る私には、納得できるお店がほとんどありません。当時と比べれば、駐在員や北京在住の日本人や出張者もぐんと多くなり、需要も増え、嗜好も多様化しているので、お店の数が増えても、うまくやっているスナックもあるのでしょうけど....

久しぶりにこのあたりを歩いてみると、京広橋までの店舗はすべて"立ち退き"済みでした。行きつけのDVD Shopも移転先も残さず消えてしまいました。南側はほぼ"取り壊し"が済んでいて、「2号店」の隣の建物までが無残な姿を曝していたのですが、「2号店」だった建物だけは、まだしぶとく残っていました。
今週末あたりには、もう跡形も無くなっているのでしょうか....国破山河在、いや夏草やぁ..ツワモノどもが夢の跡。少し感傷でした!
by pandanokuni | 2005-05-17 23:42 | ひまネタ
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