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映画「如果・愛」 - 北京と上海、つくりモノと現実の再現、松田優作と金城武。
久々の更新になりますが、矛先の良く無さそうな社会ネタは止めといて、今回は久々にエンタテインメント・ネタということで。

陳可辛(ピーター・チャン)監督の映画「如果・愛(Perhaps Love)」を観ました。
2005年9月のヴェネチア映画祭の閉幕作品として上映され、12月に中国で劇場公開された映画で、中国では既に正規版DVDが販売されています。
シンプルな三角関係の恋愛ストーリーですが、映画製作現場を舞台とした"劇中劇"でミュージカル仕立ての演出によって、エンタテインメント性を強く打ち出した秀作といえます。主演は、金城武と張学友(ジャッキー・チュン)、この二人のビッグスターが争うのは「小さな中国のお針子」や「北京の自転車」に出演して周迅。そして何故か「宮廷女官チャングムの誓い 」でミン・ジョンホ役の韓国のJi Jin-hee(チ・ジニ)が、映画の中の映画の"狂言回し"役として出演しています(知人の中国人によると「無極(PROMISE)」の真田広之より北京語がキレイらしかったですが、映画界における”中華思想"の発動などと、このブログをご覧の方からコメントをいただくけるのではないかとワクワクしちゃいます)。

さて、周迅扮する大陸のスター女優と金城武扮する香港のスター男優が、初めて競演する"映画の中の映画"。そのプレス向け製作発表で初顔合わせした二人は、実は10年前は恋人同士でした。"映画の中の映画"で記憶喪失の役を演じる周迅は、金城武との過去のできごとをも無かったことにしてしまいます。
10年前、映画監督を目指し香港から北京の映画大学にやってきた金城武は、いまも北京にあるような小汚いラーメン屋で、自分の食べ残しを食べていた、貧乏暮らしのスターを夢見る周迅と出会います。三里屯のバーで山口百恵の"ロックンロール・ウィドウ"を歌う周迅と金城武は再会し、お互いの夢にそれぞれ挫折しながらも支え合うのですが、周迅は金城武の前から突然姿を消してしまいます。
お互いにビッグ・スターになって初共演するのが、上海で撮影されている"映画の中の映画"。この"映画の中の映画"のは、20世紀前半の上海が舞台のようですが、1995年の北京よりもモダンですらあります。

この映画の注目点は、都市論としての北京と上海
ストーリーを貫く映画の撮影は現在の上海で行われています。大仕掛けの撮影セット、QUEENの"BOHEMIAN RHAPSODY"のクリップを思い起こさせる大道芸人による大コーラスなど、資本を娯楽に変えるビジネスの拠点こそ上海に相応しいイメージと言えましょう。
一方10年前、若い二人がスターと監督を夢見て不器用な愛を育む舞台は冬の北京。中国におけるインキュベイター(孵卵器)としての北京を見事に表わしているように思えました。中国で活躍する映画スターや監督の多くは、若い頃北京に出てきて映画大学などで修行したりしています。映画に限らず、美術系/文学系のアーティストたちの多くも、まずは北京を目指し、自己表現に磨きをかけていきます。そして、だんだん売れ出していくと活動の拠点は上海へと移っていきます。これはエンタテイメントやアートに限らず一般的なビジネスの世界でも当てはまりますし、R&D(技術開発)の拠点が多いのも北京です。
上海は中国における経済の中心ですから、単純に言えば、お金が集まるのです。監督のダメ出しや失踪で制作費を気にするプロデューサーや金城武のマネージャーは香港人という設定のようですから、資金は香港(経由で海外)から、才能は北京から、それぞれ上海に集まってくる、と言うわけですが、これは映画に限ったことではありません。
北京で育んだモノが、上海で花開く。周迅と金城武の恋もそうなのですが(最終的にはそうでもないのですが)、中国におけるこの2大都市の役割を見事に表わしているように思えました。

もう一つの注目点は、映画が"つくりモノ"なのか"現実の再現"なのかという観点
映画の製作現場そのものを映画として描いてたのは、私の大好きな映画のひとつ、フランソワ・トリュフォー監督の「アメリカの夜」の手法です。映画の舞台が映画のスタッフやキャストがステイしているホテルを中心とした撮影現場であったり、キャストやスタッフ同士の色沙汰騒動であったり、それによって映画の中の映画のストーリーが変わっていったりと、二つの映画で共通する点はたくさんあります。
夜のシーンを昼間に撮影するというテクニカル・ワード「アメリカの夜」をタイトルにしたトリュフォーのほうは、「映画の世界は裏も表もすべてつくりモノ」ということを表現しようとしたのだと思いますが、「如果・愛(Perhaps Love)」のほうはむしろ逆で、現実世界を凝縮した小宇宙としての映画を表現したかったのではないかと思います。少なくとも張学友扮する映画監督は、自分と周迅との間に実際に起こった出来事を再現するために映画に取り組んでいると言えるでしょう。
「如果・愛(Perhaps Love)」では、周迅の現在の恋人という設定の映画監督を役者(=つくりモノ)である張学友(ジャッキー・チュン)が演じて、その監督が周迅のもう一人の恋人役(=現実の再現)を"映画の中の映画"でも演じています。一方、「アメリカの夜」では監督のトリュフォー自身が"映画の中の映画"の監督をも演じています(=現実の再現)。
ところが、「アメリカの夜」の映画の中の映画の主役男優(=つくりモノ)であるジャン=ピエール・レオは、私の中では<情けない男大賞>なのですが、「如果・愛(Perhaps Love)」の映画の中の映画の主役男優である張学友も金城武も、最後までクールな二枚目役で居ることができました。私にしてみれば"トリュフォーの勝ち、つまり映画は"つくりモノ"であることを認めなければならない、と言うことを強く肯定する印象を受けました。


映画「如果・愛」 - 北京と上海、つくりモノと現実の再現、松田優作と金城武。_b0047829_261151.jpgそして最後の注目点は、その金城武です。

映画「如果・愛」 - 北京と上海、つくりモノと現実の再現、松田優作と金城武。_b0047829_273524.jpg私はウォン・カーウァイの「重慶森林」(恋する惑星)の金城武を見たとき松田優作じゃないか、と思ったことがあります。
その後、深キョンに釣られてテレビドラマ「神様、もう少しだけ」のDVDを視たのがよろしくなかった....(このドラマ、8年前の仲間由紀恵が視られることでも「お宝」です)。そして、張芸謀監督の「十面埋伏(LOVERS)」で私の中の金城評価を更に落ちていきました。
ところが「如果・愛(Perhaps Love)」の金城武はカッコ良かった。この映画、フェイスだけのフルショットが多いのですが、金城武は顔だけで演技が成り立つ数少ない俳優の一人であることを確信しました。
私の大好きな松田優作も、アクションとか台詞回しがお上手なので、そちらのほうが目立ってしまいますが、顔の演技がスゴイんです。「如果・愛(Perhaps Love)」の金城武には、森田義光監督の「家族ゲーム」における松田優作を髣髴させるシーンがたくさんありますよ....。
音楽や踊りや照明効果がてんこ盛りの映画の後には、音楽を一切排除した「家族ゲーム」を一度ぜひお楽しみください。

というわけで、「如果・愛(Perhaps Love)」を観た後に、なぜかトリュフォーの「アメリカの夜」と森田義光の「家族ゲーム」を見直してしまい、ヒッキーな週末になってしまいました。

※ゲームの世界(カプコン「鬼武者」シリーズ)では、金城武と松田優作、そしてジャン・レノが競演しているそうです(Impress News)。
by pandanokuni | 2006-02-12 02:09 | ひまネタ
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